神仏へのコンプレックスと、これからの人生後半戦。向き合わざるを得ない『信心』と『しきたり』への葛藤

ライフスタイル

導入

神社や寺に足を運ぶ際、作法やルールに戸惑いを感じたことはありませんか?

今回は、私自身が抱えている「神仏崇拝に対するコンプレックス」と、避けては通れない「これからの供養や地域との関わり」についての葛藤を綴ります。

神仏崇拝に対する「コンプレックス」と「不安」

神社や寺の敷地に入ると、鳥居の敷居を跨がない、三礼三拝など、細かなルールがあります。私はなぜそうすべきかを根気よく教わった経験がないため、正しく振る舞うことができません。知っている人の真似をしてその場を凌ぐたび、神仏を崇拝することへのコンプレックスを感じ、ストレスからその場を避けたいとさえ思ってしまいます。

しかし、人生の後半戦を考える今、そうも言っていられない現実があります。

自身の供養: 自分が入るお墓や供養のあり方を考える際、寺との関わりは無視できません。

地域の維持: 義実家の農地を維持するには、自治会と神社の関わりを避けて通ることはできません。

母方の実家でのお参りや初詣の記憶はあっても、法事などの深い経験が乏しい。この「刷り込みの少なさ」が、この先どう振る舞えばいいのかという不安の種になっています。

時代の変化と心の葛藤

コロナ禍を経て、墓仕舞いや家族葬が増え、神社の祭祀も簡素化されています。

コンプレックスを抱える私としては、その「簡略化」の流れに便乗し、楽をしたいという本音もあります。しかし、本当にそれでいいのかという葛藤も消えません。

今はまだ小さな燻りですが、いつか大きな決断を迫られる時が来る。そんな予感を感じています。

私の抱える「神仏崇拝」への葛藤構造
【過去・背景】
カトリックの洗礼・内省の習慣
作法の刷り込み不足・家庭環境
【現在・心理】
神仏へのコンプレックス
知らないことへの不安・回避欲求
【将来・現実的問題】人生後半戦
  • 墓守: 自身の遺骨と寺との関わり
  • 地域: 義実家の農地維持と神社祭祀
「逃げたい自分」 vs 「逃げられない現実」
心の小さな範囲で常に燻り続けている葛藤

【回想】私の精神的背景と「カトリックの洗礼」

この葛藤の根底には、私の生い立ちや過去の経験が影響しているのかもしれません。以前のブログ(2019年)に記した、私の宗教観についての文章を再掲します。

2019.10.15のブログより
私は、カトリックの幼稚園に通い、小6で洗礼を受けました。親は放任で、特定の主義がない家庭でした。

宗教とは「物事を見る時のスケール(尺度)」だと思います。小さな意思決定が積み重なり、生き方や人生を形作るものです。

夫婦喧嘩が絶えない家庭環境の中で、私は悶々とする日々を送り、教会に救いを求めました。しかし、告解(罪の告白)という儀式を通じて、教義に反することが本当に「いけないこと」なのか疑問を抱くようになり、大学卒業後は教会から離れました。盲信していた教義が、自分には合わないと気づいたのです。

それでも、生きていく上での指針や拠り所は持ち続けたい。私は内向的な性格もあり、人との交わりよりは、テキスト(言葉)から人生のエキスを抽出したいタイプなのだと自覚しています。

現実として動き出した「背負うもの」

そんな葛藤を抱えながらも、現実は少しずつ動き出しています。昨年末には、姑に教わりながら仏壇の掃除をしました。また、姑と次女と一緒に、家族でお墓参りにも行きました。

私の住む地域では、姑に限らず、仏花のためにわざわざ畑で花を栽培する農家が多く見られます。それほどまでに、お墓や仏壇を大切にする文化が深く根付いているのです。

その光景を目の当たりにするたび、自分がこれから背負っていくものの重さをひしひしと感じずにはいられません。

知らぬ存ぜぬでは通せない、積み重ねられてきた時間の重み。

コンプレックスや苦手意識はすぐには消えませんが、今はその「重さ」から目を逸らさず、一つひとつ丁寧に向き合っていくしかない。そう自分に言い聞かせながら、人生の後半戦を歩んでいこうと思います。

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