導入:田舎暮らしで見えてきた「名もなき奉仕者」たち
田舎へ移住して気づかされるのは、行政や組織の仕組み以上に、「個人の自発的な奉仕」によって支えられている空間が驚くほど多いということです。
カラスに食い散らかされるゴミ置き場を黙々と掃除する人、自治会館に花を絶やさない人、雨の日も通学路に立つ人。彼らはなぜ、報酬もないのにそこまで動くのか。その背景には、単なる善意を超えた「生存戦略」と「沈黙の権力」が見え隠れします。
結論から言えば、コミュニティにおいては「やりよる人(実行する人)」こそが最強であるという真理です。
「奉仕」が「権力」に変わる構造
「面倒なことを引き受ける」という行為は、周囲に対して強力な発言権、あるいは「文句を言わせない壁」を築くことにつながります。この力学を図式化すると以下のようになります。
奉仕は「犠牲」であると同時に、自分を守り、場所を支配するための「盾」でもあるのです。
公共の場における「自衛」としての奉仕
例えば、ゴミ置き場の管理を完璧に行う人は、その場所のルールを決定する実質的な主導権を握ります。
これは過去にコミュニティ内で摩擦を経験した人が、二度と立場を悪くしないために「完璧に役割をこなす」ことで、自らの居場所を強固に防衛している側面もあるのかもしれません。
誰に頼まれずとも、お墓の掃除やお地蔵さんへの供え物を続ける姿は、周囲に「あの人が関わっている領域には手出しできない」という不可侵の印象を与えます。
家庭内介護にみる「現場」の絶対的優位
この構造は、家庭内、特に「老親の世話」において最も顕著に現れます。
認知症が進み、施設入所を検討する段階になったとき、普段何も手伝わない親族(外野)が「自宅でみてあげたら?」と理想論を口にすることがあります。しかし、実際に毎日泥をかぶっている人間が、
「じゃあ、あなたが自宅でみたら?」
と一言返せば、議論は即座に終了します。
どれほど正論を並べても、「現場で手を動かしている人間」の決定権を覆すことはできません。
結論:ゴミと死、そして持続する覚悟
墓守の問題も、自治会のゴミ管理も、本質は同じです。
「誰かがそこで生活し続けている以上、ゴミは出続け、人はいつか死ぬ」という、逃れられない現実を誰が引き受けるのか。
次の代に何を持ち越すかは課題ですが、少なくとも今この瞬間、その場所を維持しているのは、理屈ではなく「やりよる人」です。
面倒なことを引き受けることは、一見損な役回りに見えます。しかし、それはコミュニティにおいて最も揺るぎない、そして最も「自由」な立場を手に入れるための、したたかな生存戦略なのかもしれません。

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