「よくできる子」の参観日に行かなくなった理由。凸凹一家のわが家が辿り着いた、夫婦の役割分担。

凹凸フレンズ

はじめに

わが家のカレンダーには、少し変わった「担当制」があります。

知的障害のある長女の参観日や懇談、福祉機関とのやり取りは、主に私。

対して、定型発達でいわゆる「優等生タイプ」の息子たちの学校行事は、主に夫。

夫は子育てに協力的ですが、この役割分担は、話し合って決めたというより「なんとなく、そうなった」ものでした。

「優秀な子」が集まる場所の息苦しさ

なぜ私は、息子たちの参観に行かなくなったのか。

それは、お勉強がよくできるタイプの子が集まる場所で、そこにふさわしい「母親」としての振る舞いが、私の性格的にどうしてもできなかったからです。

先生や他の保護者の方々との、どこか背筋の伸びたお付き合い。

高い偏差値や輝かしい進路が当たり前に語られる空間。

そこに身を置くと、何とも言えない場違いな感覚に襲われてしまうのです。

「私と娘は、同じ毛色なんだと思う」

一方で、長女の通う支援学校や福祉の現場に行くと、不思議と肩の力が抜けます。

できないことがあるのが当たり前で、一歩進んでは二歩下がるような日常。そこにある泥臭いやり取りの方が、私にはしっくりくるのです。

私は、知的障害のある長女とおそらく「同じ毛色」なのだと感じています。

キラキラした成功体験よりも、不器用で、ままならない現実を必死に生きる感覚。それが私の本質なのだと、子育てを通じて突きつけられた気がします。

凸凹を埋めるための、夫婦のパズル

夫が息子たちの担当をしてくれることで、わが家のバランスは保たれています。

夫が「光」の当たる場所で息子たちをサポートし、私が「影」や「土台」となる部分で娘を支える。

一見、差別的にも見えるこの分担も、私たち家族が崩壊せずに歩み続けるための、切実で合理的な「生存戦略」でした。

結びに:自分に合う場所で生きていく

親だからといって、すべての子に対して完璧な伴走ができるわけではありません。

自分の得意・不得意を認め、居心地の悪い場所からはそっと身を引く。

その分、自分と同じ温度感で生きる娘の手をしっかり握る。

そんな「凸凹な親」の在り方があってもいいのではないか。

今では、そう思えるようになっています。

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