運転ボランティアを始めて半年ほどが経ち、対象者の方々とのお喋りが楽しみの一つになっています。自分の親と同世代の方々の頑張る姿に勇気をもらい、穏やかな気持ちで接することができる。その時間に、私はある種の「清々しさ」を感じています。
けれど、ふと自分自身の内側に目を向けると、そこには少し複雑な感情が横たわっていることに気づきます。
誰かに何かをしてあげたいという純粋な「善意」よりも、「してあげないと後ろ指を指されそうだ」という気持ちが上回ることはないでしょうか。私の場合、親孝行や神仏参りを考えるとき、心の中に「モラル警察」が登場することがあります。プレッシャーを感じながら、義務感に背中を押されて動くのは、なかなかのストレスです。
不思議なものです。ボランティアで接する高齢者にはあんなに優しくできるのに、実親や義理親のことになると、心の中にすっと「壁」のようなものが立ち上がってしまう。
それはおそらく、ボランティアには「役割」という出口があるけれど、家族には「生活」という終わりなき日常があるからかもしれません。優しくすればするほど、さらに求められるのではないか。自分の生活が侵食されるのではないか。そんな無意識の自己防衛が、壁を作らせるのでしょう。
この葛藤は、今年21歳になった長女がグループホームに入所した際にも、私を激しく揺さぶりました。
長女を送り出した大きな理由は、私自身が家で見続けることに限界を感じ、「きつい」と思ったからです。世の中には、同じ状況でも自宅で献身的に支え続けている保護者の方もいらっしゃいます。そんな方々と自分を比べたとき、心の中のモラル警察が「それは親の身勝手ではないか」と囁くのです。これは、老いた親を施設に預けるかどうか悩む時の心境にも、よく似ていると思います。
けれど、私は自分を正当化したいわけではありません。ただ、人生とは、決して正解のない選択の連続なのだということを、身をもって感じています。
もし私が「正解」を求めて無理をして自宅で世話し続けていたとしたら、余裕を失った私は、娘に対して今のボランティアのような温かな眼差しを向けられなくなっていたでしょう。
娘は今、グループホームを嫌がらず、自分の居場所として過ごしてくれています。その姿に救われながら、私は「これで良かったのだ」と自分に言い聞かせるのではなく、この選択から始まった「今」を、ただ静かに引き受けようと思っています。
ボランティアで見せる笑顔も、家族に対して抱く戸惑いも、どちらも偽りのない私の姿です。
完璧な善意で動けない自分を責める必要はないのかもしれません。大切なのは、社会的な「正解」に自分を当てはめることではなく、葛藤しながらも、自分が納得できる「心の置き場所」を探し続けること。
人生の折り返し地点。これからも役割の変化や、義実家の土地管理など、正解のない問いは続いていくでしょう。
自分の「庭」をどう手入れしていくか。時には誰かの手を借り、時には壁を作り、そうして試行錯誤しながら、自分なりの「niwakatsu」を続けていけたらと思っています。

コメント