10年前の自分に、今の私を見せたら何と言うでしょうか。
当時は、長女に障害があるとはっきり認めたくなくて、「まだ伸び代があるはず」と微かな期待を捨てきれずにいました。
伸びるはずのない知能を伸ばそうと、必死に「はっぱ」をかけていたあの数年間。今思えば、それは娘に過度な心理的負担をかけ、精神発達にまで悪影響を与えてしまったのではないかという、深い後悔の記憶でもあります。
「ありのまま」を認めるまでの長い葛藤
かつて私は、他の子と比べては焦り、娘の宿題を見るたびに、理解できない彼女にげんなりしてしまうような母親でした。
「ありのままの姿を認め、ほめて育てましょう」
そんな子育てのスローガンを頭では理解していても、心が追いつかない。自分の考え方が間違っていると承知しながらも、子供の育てやすさを物差しで測ろうとしてしまう自分がいました。
しかし、高校入学に向けて療育手帳を初めて取得した頃、ようやく私の中で「長女の障害」という現実を本当の意味で受容できたのだと感じています。
娘が教えてくれた「価値観の変化」
長女という存在があったからこそ、私の中の価値観はがらりと変わりました。
もし障害受容ができないままだったら、私は今も娘の存在を隠し通し、彼女を引きこもらせてしまっていたかもしれません。
障害を受け入れたことで、私は外の世界に対しても、隠し事をしない生き方ができるようになりました。
公的機関や福祉施設に相談に行き、社会資源を積極的に活用しようと動けるようになったのも、大きな一歩でした。
福祉という「海原のコンパス」
自分ひとりで抱え込んでいた時は、どうしても近視眼的になり、視野が狭くなっていました。特に娘の調子が悪い時、これまでのノウハウが通用しない絶望感に襲われることもありました。
そんな時、支えになったのは支援員の方々という「コンパス」でした。
家族を一つの船とするならば、支援員さんは社会という大海原を安心して航海できるよう、進むべき航路を示し、灯台のように温かく照らしてくれる存在です。関わりのプロである彼らの広い視野に触れることで、救われる瞬間が多々ありました。
過去の「つぶやき」をパッチワークのように
今、こうして過去のブログやSNSの記録を振り返ると、当時はまとまりのない「つぶやき」でしかなかった言葉たちが、パッチワークのようにつながり、新しい意味を持ち始めていることに気づきます。
「10年後、どうなっているか分からない」
だからこそ、今のこの迷いも、苦しみも、言葉遊びのように残していく。
それは、数年後の自分にとって、きっと心の平穏を保つための大切な「内省の記録」になるのだと信じています。


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