【去年の私へ】娘と離れる罪悪感の先に、見つけた「優しい時間」

家族

1年前の12月。

娘のグループホーム入所を前にして、私の心は千々に乱れていました。

部屋に残る娘の匂い、散らかったベッド。

「離れれば楽になる」という開放感と、「捨ててしまうのではないか」という耐えがたい罪悪感。

当時の日記を読み返すと、今も涙がこぼれます。

娘の癇癪につきあう日々は、私にとって嵐が過ぎ去るのをじっと待つ「麻痺」の時間でした。

幼い頃、両親の激しい喧嘩から心を守るために身につけた防衛本能。

大人になった私が、娘の荒れる姿に当時のトラウマを重ねてしまう……。

それは、出口の見えない慢性的な鬱のような日々でした。

「お母さん、側に来て」

そう甘える娘の、湯たんぽのように温かい肌。

手がかかるけれど、愛おしい。

でも、その愛おしさを飲み込むほどの激しい感情のぶつかり合い。

「早くどこかへ行ってほしい」と思ってはいけない感情を抱いては、自分を責めていました。

それから1年。

今の私たちは、適度な距離という「境界線」の上に立っています。

先日、娘から「情緒不安定だからお出かけしたい」と連絡がありました。

昔の私なら、また振り回されるのかと絶望していたかもしれません。

でも今の私は、1時間だけ「しまむら」や「セリア」に連れて行き、彼女の機嫌がコロッと晴れるのを、余裕を持って見守ることができました。

グループホームの職員さんの力を借りることで、私は「麻痺」させる必要がなくなったのです。

娘もまた、外の世界で頑張っているからこそ、私にだけは甘えのSOSを出してくる。

去年の私が流した涙は、決して無駄ではありませんでした。

帰る場所を守りながら、別々に暮らす。

この距離があるからこそ、今の私は娘を「愛らしい存在」として、ありのまま受け止めることができています。

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